第17号 B29への体当たりを見た

昔あったづもな 第17号               
小澤俊夫

B29への体当たりを見た。  
 あちこちの戦線で「玉砕」があったことが報道され始めた頃、ぼくたち中学二年生は「勤労動員」と称して軍需工場に労働力として駆り出された。このことは通信第11号でも書いたが、ぼくは立川で、東京府立第二中学校に在学していたので、南多摩にある陸軍第二造兵廠に配属された。ぼくらの仕事は、出来上がった火薬を木箱に詰めて封印し、馬車で火薬庫に運びこむ仕事だった。送られてきた火薬を木綿に包み、木箱にきれいに並べて詰め、蓋を釘で打ち付ける。仕上がりの重さは30キロと言われていた。木箱を作業室の一隅に積み上げる。
 箱がたまると馬車が来る。ぼくらは積み上げた木箱を肩に担いで馬車に積み上げる。それから、馬車と一緒に遠くの谷間にひっそりかくれている火薬庫まで運び、火薬庫の中にまたきちんと積み上げる。それが一連の仕事だった。火薬だから絶対に落としてはいけない。「万が一落としそうになったら、手がつぶれてもいいから、最後まで手を放すな」ときつく命令されていた。
 木箱を担ぎ上げるには、箱の両側にひとりずつ立って持ち上げる。担ぎ手は肩を入れ、箱を45度に傾けて肩に乗せる。肩に食い込んで、肩当てをしていても痛かった。肩はだんだんに固くなり、翌年の敗戦のころには鉄板のように固くなっていた。
 30キロの次に来たのは45キロの箱だった。中身は戦車地雷の火薬とのことだった。政府は、「本土決戦」という言葉を使って、アメリカ軍を本土まで「おびきよせて」本土で殲滅するのだという。そのための戦車地雷だった。サイパン、グアムで負けた日本軍が、本土なら勝てるというのである。もし天皇が本当にそこまで敗戦を決断していなかったら、日本本土での犠牲者は数知れなかっただろう。
 次に来たのは60キロの箱だった。これも一人で担がなければならないので、箱を担げる人数は少なくなった。次の年になって来たのは90キロと110キロの箱だった。これは、九州の知覧特攻基地からアメリカの軍艦に向けて突っ込む特攻機が抱いていく爆弾の火薬だった。この重さの箱を担げるものはクラスに三人しかいなかった。ぼくは体が一番大きかったのでその中の一人だった。中学三年である。今、子どもにこんなことをさせたら大問題になるだろう。その頃はすべて「お国のため」だったのである。
 空襲警報が鳴ると、ぼくらは谷間の火薬庫に避難させられた。グラマンなどの艦載機が超低空飛行でやってきた。ぼくらは、一発撃ち込まれたらお終いだと観念した。だがグラマンは撃ってこなかった。彼らはもう勝利を確信していたから、火薬庫は後で使えると思ったのだろう。実際、占領後はアメリカ軍が基地として使った。
B29の大編隊が東京空襲に向かって上空を通過したことが度々あった。ある日、ぼくらは空襲警報が出たので、火薬庫の防空壕に潜んだのだが、大編隊は東京方面に流れているので、呑気に上空の様子を見ていた。B29は三機で三角形の一組を作り、それが三組で大きな9機の三角形を作っている。光の点がそれに接近していき、またはなれていく。日本の戦闘機である。
そのうちに、光の点がB29に吸い込まれたかと思うと、次の瞬間、ちぎられた銀紙がパッと広がり、エンジンだけが黒煙を引いて地上に落下していった。戦闘機が体当たりしたのだった。この瞬間に、日本の飛行士もアメリカの飛行士も即死したはずである。ぼくらは言葉なく、空を見上げていた。
そのうちに、パラシュートがぽつっ、ぽつっと二つ開いた。当然アメリカの飛行士だと思った。ところが翌日の新聞を開くと、体当たりした日本の飛行士が奇跡的に生還したということだった。よほど運動神経の発達した人だったのだろう。体当たり寸前に戦闘機から脱出したのだそうだ。新聞は「軍神」と書き立てて大騒ぎをした。負けそうになっている日本人を奮い立たせるのに役立てたかったのだろう。だがこの飛行士も、たしか三回目には失敗して戦死した。
戦争は、人と人とが殺しあうものである。必死になって殺しあう。戦争になってしまうと、もうそれを止めることはできない。あのきれいな青空で、光の点がB29に吸い込まれた瞬間、アメリカの若者たちが死んだ。あの時生還した日本の飛行士も、同じように空で死んでいった。
戦争を始めたい人間はいつも「自衛」だという。自分に正義があるという。だが、正義の戦争なんてない。戦争を始めたい人間の言葉に騙されてはならない。(2014・7・16)
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第16号 集団的自衛と称して、日本の若者が戦争に駆り出される事態が迫ってきた

むかしあったづもな 第16号
小澤俊夫

集団的自衛と称して、日本の若者が戦争に駆り出される事態が迫ってきた
同盟国とは即ちアメリカのことだが、アメリカがする戦争は自衛戦争ではない。常に攻撃に出ていく戦争である。ベトナム戦争、イラク戦争。そのアメリカと集団を組んで、日本の若者を戦地に駆り立てようというのである。
 現在、アメリカが今にも軍隊を派遣しそうなのは、イスラエルとパレスティナの紛争とイラク国内の紛争である。だが、この二つの紛争には、日本は全く関係がない。アメリカに付き合ってそこに日本の若者を兵隊として送りこむということは、日本人として普通に考えれば、まったく愚かな、無駄なことである。
 イスラエルとバレスティナの紛争は、完全にユダヤ教とイスラム教の宗教戦争である。ユダヤ教にとってもキリスト教にとってもイスラム教にとっても、エルサレムは聖地で、互いに独占したがっている。イスラエルの民、即ちユダヤ人にとってエルサレムはダビデの町であり、母なる都市である。ダビデが西暦紀元前1000年ころ、エルサレムを首都と定め、その後、ソロモンがエルサレムに神殿を建てた。
そしてキリスト教徒にとっては、エルサレムはナザレ人イエスの死と復活の舞台である。中世には、ヨーロッパのキリスト教国が十字軍を組織してエルサレムをイスラム教徒から奪還しようと努めた。西暦十一世紀末から十三世紀末までの二百年間に、大きな十字軍だけでも八回にわたって執拗に行われたが、成功しなかった。
 一方、イスラム教の歴史では、610年からムハンマド(マホメット)が絶対神アッラーの啓示を受けた。それを書物にしたのが「コーラン」である。「イスラム」とは「唯一の神アッラーに絶対的に従うこと」の意で、その戒律は厳しい。
複雑な歴史の流れの中で、パレスティナという地中海の東端の地域にはイスラムを奉じるアラブ人も住み着いた。第二次大戦後、1947年に国連は、パレスティナをアラブ人地域とユダヤ人地域に分割した。その分割では、全人口の33%に過ぎないユダヤ人に57%の土地を与えた。これにアラブ人側が反発し、第一次中東戦争が勃発した。
 ざっと見るだけでもこんなに長い歴史の中で解決できないままの紛争なのである。ムハンマドから考えても、日本でいえば、古事記が書かれるより100年前から始まった計算になる。
 人類にとって1400年も引きずってきた紛争に、アメリカはコミットしたがっている。なぜなら、いわゆるアメリカ人にはユダヤ系の人がたくさんいて、しかも、政治、経済の重要なポストを占めているからである。そういう紛争に、「集団的」と称して日本が若い兵隊を送る必要は全くない。この紛争は日本には全く関係のない、しかも終わらない紛争なのである。
 今、アメリカが手を出したくて仕方がない、だけど手を出すのが怖いもう一つの紛争がイラク国内の紛争である。アメリカが「核兵器疑惑がある」とうそを言って戦争を仕掛けて、イラクを大混乱に陥れ、人びとに地獄の苦しみを強いている。シーア派のマリク政権に対して、最近、スンニ派が反撃に出て、いくつもの重要都市を抑えてしまった。その混乱の間に北部にいるクルド人が勢力を拡大し、油田を抑えて、今やクルド独立国家を樹立しそうな勢いである。(クルド人は独自の国を持っていない悲劇の民族である。これまで、何人もの独立運動指導者が葬り去られている。ぼくは独立を願っている)。
 アメリカは、シーア派のマリキ政権支援のために手を出したいところだが、世論はもう戦争に賛成しそうにない。そうなると日本の軍事力が魅力的なのである。
 だが、イスラムの中でのスンニ派とシーア派の対立はもう1000年以上続いている対立である。とても終わる話ではない。そんな紛争に、日本の若者を兵隊として送るなど、絶対にするべきではない。
 安部首相の集団的自衛権の主張を聞いていると、いくつもの事例を挙げて、こういう場合に必要なのだと主張したが、ひとつひとつを吟味してみると、机上の空論ばかりである。曰く、「紛争地の日本人がアメリカの軍艦で救助されて運ばれているとき、その軍艦が攻撃されたら、ほっとくわけにはいかない」。だがアメリカの高官が「軍艦に民間人を乗せることはあり得ない」と言ったと報じられている。
 日本の若者を兵隊にして戦地に送り出すことは絶対にしてはいけない。日本は平和憲法を持っている国として、世界に平和を説いて回るべきなのである。(2014.7.14)

 

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