第20号 「他と異なることの恐れ」

昔あったづもな通信第20号
小澤俊夫

「他と異なることの恐れ」
1945年、敗戦直後、国民は、突然与えられた自由に狂喜した。ラジオでは軍歌ではなく、かつての流行歌や新作の流行歌がながされ、無数の暴露雑誌が創刊されて、かつての軍部、官僚の悪事や収賄行為などが暴き立てられた。やがて初めての総選挙になると、監獄に入れられていた政治犯が次々に立候補した。伝説でしか知らなかった共産党の徳田球一も選挙演説をして回った。
 そうした中で、思想的な雑誌も創刊された。岩波書店の『世界』もそのころの創刊だった。そのほかに『思想』や『理想』という雑誌も検閲なしで発行され始めた。
 ぼくは中学三年生だったが、なんだか新しい自由な世界が嬉しくて、わかりもしないのに、思想的な雑誌を読み漁った。その中で、強烈な衝撃を受けたのは、小説家田宮虎彦の「他と異なることの恐れ」というエッセイだった。
 田宮は戦争中の日本を反省的に振り返って、「国民一人一人が他人と意見が異なることを恐れて、自分の意見を言わなかった。それであんなに政府による統制を招いてしまったのだ。これから民主的日本を建設していくには、一人一人が自分の意見をはっきり言わなければならない。そういう自主性が求められているのだ」という趣旨のことを書いていた。ぼくは強く共感した。
 なにしろ、個人主義という言葉自体が敵性国家の言葉で、悪そのものと教えられていたのだから、他人と異なる意見を言うことなど、普通の人間にはできることではなかったのだ。お上の言うことにひたすら従うことが当たり前だった。お上と言っても実際は役場の役人か町の支配者に過ぎないのだが、他と異なることを言うのは、危険なことだった。
 当時、国防婦人会という、女性を統制する組織があって、ときどき国防訓練があった。母はまじめに参加していたが、何をするかというと、竹槍でB29爆撃機を突き落とす訓練をするのだそうだ。そんなこと、誰も信じてはいないのだが、軍人が指導するので、笑うことはできない。他と異なる言動は許されないのだ。我が家では父が軍部に強く批判的な人間だったので、あきれていたし、父は批判を口にしていた(そのために、我が家には常に立川署の特高課長が出入りしていたのだが)。
 戦後の教育の中では、「自分の頭で考えること」、「自分の意見が持てる人間になること」が強調されてきた。クラス会でも、積極的に意見を言うことがよしとされてきた。その頃の教育を受けた人たちが今、社会の中心部にいて活躍しているはずだ。だがいつの間にか日本の社会では「空気を読め」という言葉が幅を利かせるようになってきている。「あいつは、いつまでたっても空気が読めないからなあ」というのは、強い侮蔑の表現である。
 「空気を読め」は「他と異なることを恐れよ」ということである。日本社会の空気は、いつ間にか田宮虎彦が反省した、戦争中の社会の空気になってきたとしか思えない。ぼくは強い危機感を持つ。
 なぜなら、今、安倍首相を先頭にして強い右翼思想がはびこってきているが、その「空気を読め」が日本中に広がったら、日本は瞬く間に右翼国家、そして戦争する国家になってしまうと思うからである。安倍首相の言う「日本を取り戻す」は、国民が「他と異なることを恐れる日本」を取り戻すなのである。
 敗戦後の民主教育、自由教育の精神を復活して、「他と異なることを恐れない」、自分の頭で考え、意見を表明する風潮を呼び起こさないと、日本の民主主義は窒息してしまう。(2014.8.30)
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第19号 過去の記憶を残そうとするドイツ、消そうとする日本(その2)

昔あったづもな通信第19号
小澤俊夫

過去の記憶を残そうとするドイツ、消そうとする日本(その2)     
 ベルリンの有名なブランデンブルク門からほど遠からぬところに、東西分割の時代にチェックポイント・チャーリーという検問所があった。当時ベルリンは四地域に分割されて統治されていた。アメリカ、イギリス、フランス、東ドイツ政府である。それぞれの区域が検問所を設けて、通行を厳しく監視していた。1961年に東ドイツ政府がその統治区域の境界線に厳重な壁を建設してからは、西ベルリン全体が籠の中に閉じ込められることになった。アメリカ統治区域との間の検問所はチェックポイント・チャーリーと呼ばれていた。その検問所の詰所が現在でも保存されており、その脇に「チェックポイント・チャーリーハウス」という記念館がある。
 久しぶりに行ってみると、そこは大変な賑わいだった。チェックポイントだから、そもそも狭い道である。そこに、肩がぶつかるほどの観光客が集まっていた。聞こえる言葉は様々なので、世界から広く集まってきているのだろう。若者がほとんどだった。
 記念館に入るにも、長蛇の列だった。中は詳しい、生々しい展示だった。壁の建設が開始されたころ、建物の二階、三階から西側の道路に飛び降りる人々、それを助ける人々の写真。鉄条網の東と西に分かれてしまった夫婦の夫のほうが、幼ない子を妻に渡す写真。西に脱出するための地下道を掘る人々の写真。土を排出する小さいトロッコの実物。狭い地下道を腹這いになってくる人々の写真。チェックポイントを強行突破しようとした小型自動車の実物。フロントガラスの内側に弾丸除けの鉄板が張ってある。運転者が前を見られるように小さな穴がたくさん開けてある。だが、その脇に、弾丸が貫通した穴が数個あった。運転者は多分射殺されたのだろう。胸の痛む展示が上階まで続く。
 1966年、ぼくは初めてドイツに行った。年の暮れに西ベルリンについて、ドイツ人の友人宅に泊めてもらったのだが、「一昨日、チェックポイント・チャーリー近くの壁で一人射殺されたのだ」と聞かされた。東ベルリンの男性が、壁を乗り越えようとしたとき東側からの射撃が命中して、東側に落ちてしまった。男のうめき声が聞こえ、壁の西側では救急車などが待機したがどうすることもできなかった。そのうちにうめき声は消えていった。東側は男をさらし者にして殺したのだ、ということだった。
 チェックポイント・チャーリーハウスにも写真が展示されていたが、ベルリンの壁の建設は1961年のある日、突然始まった。最初はレンガを積み上げてコンクリートで固めていく単純な工事だったそうだ。だが終いには西ベルリンを周りから完全に遮断する強固な壁になっていった。東ベルリンからの脱出者が後を絶たないので、東ドイツ政府は壁の内側に鉄条網を幾重にも張り巡らし、地雷原も作ったということだ。壁とはいうものの、実際は幅百五十メートルにも及ぶ分離地帯だったということだ。
 1989年に壁が解放され、1990年に東西ドイツの再統合が実現した後、壁はほとんど取り除かれたが、今回訪問して確認できたのは、ブランデンブルク門近くに、壁が約二百メートルにわたって保存されていることであった。ここにも多数の若い観光客が詰めかけていた。
 そして驚いたことに、壁が立っていた跡が、二列に並べた石の線で、ベルリン市内の道路に延々と明示されていた。壁そのものを一部保存するだけでなく、ベルリン市内中の道路に、広場に、壁が立っていた線を明示する。過去を保存しようという、ドイツ人の強い意志を感じた。
 ベルリンの壁は共産主義政権である東ドイツ政府が建設したものである。西ドイツ国民だったドイツ人に責任があるわけではない。東ドイツ国民であったドイツ人にとっては被害の歴史である。だが東ドイツ政府もドイツ人の政府であった。ナチスドイツの場合にも、非人道的な政策を実行したのはナチス政権だが、ドイツ国民は一九三二年の選挙で、ナチス党を第一党にし、翌年には政権をゆだねてしまったのである。その意味でナチス政権の成立にはドイツ人全体に責任がある。
 1990年の再統合以来、ドイツ政府が自らの過去について取っている政策は、ドイツ人が人類に対して犯した罪を世界に対してはっきり認め、ドイツ人が苦しんだ過去もはっきり認め、それを忘却の彼方に捨て去らないように、証拠を残しておくことであると思う。もちろん国内にはいろいろな意見がある。ぼくも批判的な意見を直接聞いたことが何度もある。「われわれはいつまで謝らなければならないのか」と。しかし、国全体としてはこの政策はしっかり支持されて、続いているのである。
 自らが犯した人類への罪の証拠をはっきり残しているドイツに感銘を受けて帰国したら、なんと、新聞では戦争の跡を消そうとする動きが各地で起きていることが報じられていた。日本国内で、戦争遺跡と言えるものは三万か所あると言われているが、国や地方自治体によって保護されているのはそのうち二一六件に過ぎないとのこと。しかも近頃では、戦争の加害記述を自粛する動きが強まっているという。
 群馬県は、県立公園に建てられた朝鮮人強制連行犠牲者追悼碑の撤去を、管理する市民団体に求めたという。大沢正明知事は、「存在自体が論争の対象となり、憩いの場である公園にふさわしくなくなった」と述べているという。長崎市でも在日本大韓民国民団長崎県地方本部が平和公園内に計画した韓国人原爆犠牲者慰霊碑の建設が保留になっている。「強制労働と虐待」などの文言に「平和公園が政治目的に利用される」などの抗議が市に対して相次いだためという。埼玉県東松山市の平和資料館では、展示されている年表から「慰安婦」「南京」の文字を削除した。大阪市と大阪府が共同出資する大阪国際平和センターも、加害の歴史を大幅に縮小する計画という。
 記念碑だけではない。さいたま市大宮区の三橋公民館では、市民の詠んだ俳句を月報に掲載することを拒否したということである。その句とは「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」というのである。そもそも公民館は住民の学習の自由を保障する責務があるのだから、この俳句の掲載拒否は社会教育法違反である。こんなことがまかり通るようでは、公民館で九条の問題や戦争の問題は話せなくなってしまう。公民館の職員という公務員が、今の政府の右傾傾向に迎合して、勝手に拒否したのだろう。末端の公務員が時の政府の意向を酌んで市民を抑圧するという構図は、戦争中とまったく同じである。この雰囲気が世の中の空気を決めてしまう。これが一番恐ろしいことなのである。
 自らが起こしたあの戦争に対する責任の取り方の、日独のこの違いはどこから来るのだろうか。責任を取らず、水に流すようになんとなく消していく。内向きに、日本国内だけのことならそれでうやむやにできるかもしれないが、世界の国々との付き合いでは通用しない。
 世界の中に日本という国を置いて考えたとき、これは全く惜しいことである。日本は、戦後の約七十年間、平和憲法のもとで戦争をしないできた。アジアの国々に、襲ってこない安心な国という信頼感を与えてきた。そして、文化的には世界に通用する人材を生み出してきた。情報科学、医学などの分野でも世界に貢献してきた。それだからこそ、アジアの国々、中近東の国々といい関係を結んでこられたのである。特に中近東のイスラム諸国と。
 だが、あの戦争への反省を日本人はしていないのではないか、という疑いが生まれつつあるのが、現在の状態である。安倍首相はそのことには目をつむって、ひたすら軍事大国への道を突き進もうとしている。われわれ日本人がなんとしてもブレーキをかけなければ、引き返すことのできない状態になってしまう。(2014.8.18/2014.9.11改訂)

第18号 過去の記憶を残そうとするドイツ、消そうとする日本(その1)

昔あったづもな通信 第18号
小澤俊夫

過去の記憶を残そうとするドイツ、消そうとする日本(その1)
 グリム童話研修旅行と北ドイツの旅に行ってきた。グリム研修旅行の最後に、ぼくは、ワイマール憲法で知られるワイマールに一行を案内することにしている。日本の平和憲法の模範となった民主憲法を生んだワイマール共和国時代(1919―1933)の首都だからである。だがそのワイマール共和国は、わずか十四年でヒットラーによって打倒され、あの悲惨なナチス時代に雪崩れ込んでいくのである。それを思おうと心のふさがる町である。
 だが、ワイマールの町に入る手前で、ぼくは一行を「ブーヘンヴァルト強制収容所跡」へ案内する。このことは前にも書いたのだが、今年も実行したのでふれておきたい。
 ブーヘンヴァルト(ブナの森)に入ると高い「警告の塔」が左手にそびえている。これには「1945」とローマ数字で書かれているから、共産主義政党が建てたものに違いない。ドイツは1990年に再統合し、共産主義政党は消滅したのだが、現在のドイツ政府もこの「警告の塔」はそのまま保持している。
 この塔を過ぎると、右手に当時のいわゆる「囚人」たちを乗せてきた貨物列車の終着駅跡がある。行き止まりのプラットフォームと線路の一部が残されているのである。痛ましい生命の終着駅。
 収容所の入口の上の大きな時計は午後三時十五分で止まっている。1945年にソ連軍がここに到達した時刻なのだそうだ。鉄格子の門には、「それぞれの者に、ふさわしいものを」という言葉が残っている。「汚れた血のユダヤ人どもには、それにふさわしい仕打ちを与えるのだ」という意味である。ユダヤ人を絶滅しようと考えた狂気の言葉である。
 中に入ると、広大な敷地には何もない。バラックの収容棟が立ち並んでいたそうだが、占領したソ連軍が、伝染病を防ぐために直ちに焼き払ったとのこと。今は、見渡す限り何もない墓地なのである。右の隅に死体を焼いたという煙突が残っているだけ。あちこちのバラックの跡に低く横たえられた石碑がある。ポーランド人犠牲者の碑、ユダヤ人犠牲者の碑、ジプシーと言って差別されたロマ人、シンティ人たちの碑などである。その間を歩いていくと、苦しんで死んでいった人たちの霊がそこらじゅうにいるような気配を感じる。
 ぼくら一行は小一時間、収容所跡を見てバスに乗った。すると二十分ほどでワイマールの町に入る。ぼくはいつも、ほんとに考え込んでしまう。
 ゲーテが「ファウスト」をはじめ人類の財産となった作品を書き、シラーがあの「歓喜に寄す」という詩を書き、ベートーヴェンがそれによってあの人類普遍の「第九交響曲」を書いたのは、わずか百年ほど前のことではないか。しかも、ゲーテとシラーが住んでいたワイマールとこの強制収容所は十キロと離れていない。この時代の近さと距離の近さ、そして百八十度の逆方向。
 国家は短時間にこれほどまでに変容するものなのか。そう考えると、日本も、平和憲法を持っているからと言って安閑としてはいられない、と改めて思ったことである。強い、強い意志と積極的な行動で平和を守らなければならないと。国の平和は内部から崩されていく。日本の現状を見ると、そのことを強く思う。
 旅の第二週目の最後にベルリンに滞在した。アメリカ空軍の爆撃で破壊されたカイザー・ヴィルヘルム教会の廃墟はまだそのままそびえていた。部分的崩壊があるとかで、修復工事が行われていた。
 ベルリン市のど真ん中の広場に、「ユダヤ人のホロコースト警告記念石碑群」ともいうべき広大な石碑群がある。二百メーター四方くらいの広場に、大小の黒い石棺のような石が数百個並べてある。六百五十万人ともいわれるユダヤ人犠牲者を弔う警告記念碑群なのである。近頃はいたずら書きをする者がいるので、監視員が常に回っているということだった。
 これはナチスドイツが行った人類に対する犯罪への反省として、平和になったドイツ政府が作ったものである。ああいう犯罪は二度と起こさないという決意を世界にはっきり示している。しかも、首都ベルリンのど真ん中の広場に、数百の黒い石棺を並べて、である。
 ぼくはここでもまた日本のことを考えてしまった。従軍慰安婦という言葉で言われている女性に対する犯罪のことは、世界に知られているのに、日本では、まるでなかったかのように言う人間がいる。南京での大虐殺も世界に知られているのに、あれはなかったのだとか、そんな大虐殺ではなかったのだという人間が、だんだん幅を利かせてきている。
 日独のこの違いはどこから来るのか。これはきっと文化人類学的な研究に値する大きな問題なのだろうが、ぼくが直感的に感じるのは、過去の過ちをはっきり反省しようという精神の強靭さと、過去は早く水に流して、忘れてすっきりしようという精神の弱さの違いなのではないか、ということだ。強さ、弱さというレベルを外して言えば、自分の結果をはっきり処理するという論理性と、すべては水の流れのようなものよ、として過去を忘れていく曖昧性の違いと言えるかもしれない。
 だがそれは世界では通用しないと思う。現在起きている日本と中国・韓国とのいさかいはいつまでも続くことになってしまうだろう。世界という社会の一員としての日本にとって、それは決していいことではないと思う。世界の国々からの信頼はとても得られないと思うのである。(2014.8.15/2014.9.11改訂)
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