第35号「八紘一宇」という戦争中のスローガンが国会に現れた

昔あったづもな通信 第35号
小澤俊夫

「八紘一宇」という戦争中のスローガンが国会に現れた
 自民党の三原じゅん子という女性議員が国会で「八紘一宇」の精神が大事だと述べたと報じられた。ぼくは唖然としてしまった。「八紘一宇」とは、太平洋戦争中に、日本帝国主義者たちが、アジアへの侵略を正当化するために前面に押し立てて宣伝した標語である。ぼくは敗戦の時中学三年生だったので、よく覚えている。それは「鬼畜米英」とか「忠君愛国」、「滅私奉公」、「打ちてしやまん」、「お国のために命を捧げます」、「欲しがりません、勝つまでは」「国の捨て石になる」などという言葉と共に、日本人を戦争に駆り立てる重要な言葉だったのである。
 この言葉は日本書紀の言葉から、明治36年(1903年)に田中智学という在家仏教運動家が、日本を中心とした世界統一の原理として造語したものである。世界の国々を日本という一家の中に包容するという意味である。日本を中心とした世界統一の思想であり、帝国主義そのものの言葉である。「大東亜共栄圏」という言葉と結びつけられて、日本がアジア統一の中心になり、ひいては世界を日本という家の中に入れるという侵略思想の言葉である。
 ぼくたち「少国民」はほとんど毎日こういう言葉を教え込まれ、唱えさせられた。それが戦後70年の今、国会で堂々と述べられたのである。ぼくは、日本は本当に危ない所へ来てしまったと思った。
 しかも、もっと驚くのは、そのとき国会で議論していた議員たちが、ほとんどこの発言をとりあげて追及することがなかったことである。確かに、議員たちのほとんどは、この言葉を実際に聞いた経験はないだろう。しかし、日本の帝国主義侵略については当然学んできたはずである。その中で、この言葉には当然何度も出くわしているにちがいない。それなのに、今、国会で議員の口から「八紘一宇」が飛び出しても、それがいかに危険な兆候であるかを感じなかったとしたら、それはもう怠慢、不勉強、感受性の磨滅と非難されても弁解の余地はない。平和国家日本の国会議員の資格はない。
 そして、もっと驚いたことに、マスメディアがこの事実をほんのちょっと紹介しただけで、ほとんど問題にしていないことである。全新聞を調べたわけではないが、ほとんど、小さな囲み記事で報じているに過ぎない。ぼくはテレビをいつも見る人間ではないが、テレビに至ってはほとんど問題にしていなかったと思う。10年前だったら、確実に大騒ぎになっただろう。マスメディアが問題として追及して、しまいには議員の罷免騒ぎにまで発展したかもしれない。
 安倍首相は選挙の時「日本をとりもどす」というスローガンを掲げた。安倍首相とその一派にとっては、国会で「八紘一宇」を持ち出すのも「とりもどす」行動のひとつなのだろう。こうやって、軍国主義日本の空気を、次第次第に国民の間に浸透させ、国民に慣れさせていくつもりなのだろう。その手に乗ってはいけない。
「八紘一宇」問題を執拗に追及することを、マスメディアに強く求めたい。(2015.3.24)
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第34号 自衛隊の文民統制を外すことの危険性

昔あったづもな通信 第34号
小澤俊夫

自衛隊の文民統制を外すことの危険性                
安倍内閣は防衛省の組織を改編し、「運用企画局」を廃止して、「統合幕僚監部」が自衛隊の部隊運用を一元的に進める案を国会に提出している。部隊の運用は現在、文官である運用企画局長―同じく文官である事務次官―防衛大臣の線で行われているが、改正案では、自衛官のトップである統合幕僚長が直接に防衛大臣を補佐することになる。運用の迅速化と効率化のためと説明されているが、これは自衛隊の作戦運用を軍人である統合幕僚長の専権事項にするということで、極めて危険である。
敗戦まで、日本では「統帥権の独立」という概念があった。「統帥権」はもちろん天皇にあったのだが、実際の軍の運用は陸軍大臣、海軍大臣、そして陸海の参謀総長に任されていた。天皇は軍の実際の運用など知るわけがないから、自然にそうなっていた。その結果、陸軍が満州事変を起こし、支那事変へと発展させ、ついには日中全面戦争にまで発展させてしまったのである。「統帥権」はあくまで天皇にあったのだが、実体としては軍人たちが進めていった。
国会中継を見ていると、安倍首相は「自衛隊の最高指揮官は総理大臣ですから、それで文民統制は完結しているわけであります」と答弁していたが、総理大臣が実際の軍の運用を知っているわけがないのだから、この発言は全くの言い逃れである。言葉の上での「完結」に過ぎない。
軍人は戦争があるほうが仕事になるから、すべてを戦争向けに考える。現在、日本と中国に間には、いわゆる「尖閣諸島問題」があり、一触即発の状態という。こういう時に自衛隊の運用を軍人に任せたら、極めて危険なことになる。
逆に言うと、自衛隊の幹部たちは、尖閣諸島問題が危険状態にあるから、即座に軍事的に対応できるシステムを作っておきたいのだろう。改正案の「統合幕僚長」が実現したら、尖閣諸島を巡って中国がちょっとした刺激を起こしたら、自衛隊はすぐ出動するかもしれない。小競り合いである。支那事変のきっかけになった盧溝橋事件のような小競り合いが起きるかもしれない。今日の新聞によると、安倍首相は「存立危険事態」など、衝突を起こせる状態を探っているようである。

「文民統制」は軍人の暴走を許した戦前、戦中の苦い経験から生まれたものである。
一九五〇年、警察予備隊が創設されたとき、満州事変以来の、軍人の暴走を許した苦い、苦い経験から、「文民統制」という考え方が言われ、それ以来の日本で確立してきた思想である。そして、憲法でも六六条、2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と規定されたのである。
ところが現在の中谷防衛大臣は防衛大学校出身の自衛隊幹部だった。これは憲法の精神に反するのではないか。職業軍人でも軍服を脱いだら文民と言えるのか。
法律的には問題ないのかもしれない。しかし憲法の精神を重んずれば、かつて軍人だった者を閣僚に任命することは避けるべきではないのか。マスコミはそれをチェックする役割を持っているのではないか。

中谷防衛大臣曰く「その後、生まれたわけで、当時、どういう趣旨かどうかはわからない」
これは前号でも批判したことだが、あまりにひどい発言なので、もう一度批判したい。自分が生まれる前のことには責任は負わない、と言っているのだが、それが通用するなら、現在の憲法が制定されたときには自分は生まれていないからわからない、と言えることになる。そんなことは絶対に通用しない。いわんや、大臣という責任ある人間として絶対に認められない発言である。
マスメディアがその点を追及しないこと自体が、大問題である。通り一遍の記事で済ませていい問題ではない。マスメディアが馬鹿にされていることに気づかなければならない。このようなひとつひとつの場面でマスメディアが馬鹿にされているうちに、政治家はマスメディアの批判なんぞ、まったく気にしなくなる。挙句の果てには秘密保護法で口を封じられる。マスメディアの弱体化が今日の日本の重大問題だと思う。

「文民統制」は譲れない基本思想だが、その文民自体が好戦的である場合は最悪である。
「文民統制」は憲法に明記された、民主主義国家の基本思想である。しかし、自衛隊の最高指揮官が「文民」でありさえすればいいということではない。それは現在の安倍首相を見ればわかることである。先に指摘したように、安倍首相は国会の予算委員会で、「自衛隊の最高指揮官は総理大臣ですから、それで自衛隊の文民統制は完結しているわけであります」と答弁したが、現在の日本ではその安倍首相自身が最も好戦的で、地域制限を撤廃した集団的自衛権の行使をめざしている。これが、国として最も危険な状態なのである。だから、法律上「文民統制」は外せないが、「文民統制」という言葉がありさえすれば国家として安泰というわけではない。
極めて好戦的な「文民」最高指揮官によって、日本は今、極めて危険な状態にある。こうなると、真近に迫って来た統一地方選挙で、安倍首相の率いる自民党を敗北に追い込まなければならないのである。それぞれの地域で、反自民の候補者を応援して、自民党を敗北に追い込む努力をしよう。(2015.3.12)

第33号 首相と閣僚の横暴な発言を許してはならない

昔あったづもな通信 第33号
小澤俊夫

首相と閣僚の横暴な発言を許してはならない

先日、予算委員会の審議をテレビで見ていたら、大臣の政治献金について野党委員が追及しているときに、安倍首相自身が「日教組、日教組」とヤジを入れていた。ぼくはあきれてしまった。一国の総理大臣が国会の場でヤジを飛ばすのかと。
野党委員が追及していたのは、政府の補助金をもらっている企業が一年以内に政治献金をすることは禁じられているのに、大臣が献金を受けていたということだった。それにたいしてのヤジなのだが、議員がヤジを飛ばすのは、下品だがまあありうることだろう。飛ばす議員そのものの品位が落ちるだけの話である。
だが、一国の総理大臣がヤジを飛ばすとは、あまりにも品のないことではないか。総理としての矜持など、まったくもっていないことがわかる。もっているのは驕りだけなのだろう。
だが新聞をはじめマスコミでは、「総理のヤジ」としてほとんど取り上げていない。問題にしなくていいと思っているのだろうか。いや、おそらく、安倍首相の今のすさまじい権勢にたじろいで、「総理のヤジ」という問題として取り上げることをためらっているのだと思う。
実は、そのヤジの内容にも「事実無根のヤジ」という問題があった。野党委員の追及は、補助金をもらった企業からの政治献金の問題だったのだが、その時安倍首相は、「日本教育会館から献金をもらっている議員が民主党にいる」と答弁した。事実としては、教育会館は交付金を受けていなかったことが、文科省の調べで判明し、安倍首相は翌二十三日には訂正した。これは「事実に反する非難」であって、悪質である。首相が「事実に反する非難」をしたことは問題にしなくていいのか。マスコミはちらっと報じただけで、あとは何ごともなかったのかのように過ごしている。野党の追及もない。
「総理のヤジ」と「事実に反する非難」を合わせると、「総理の、事実に反するヤジ」ということになる。これを黙って見逃していいのか。マスコミの見識と実力がと問われていると思う。こんなことでは、特定秘密保護法への反撃も、集団的自衛権行使への反撃もおぼつかないではないか。記者たちの奮起を促したい。

「文官統制は軍部暴走の反省ではない」と中谷防衛大臣
政府は、文官統制廃止などを盛り込んだ防衛省設置法改正案を三月上旬に閣議決定する方針とのことだが、防衛省の文官統制を廃止すると、民主主義の根幹をなす文民統制(シビリアンコントロール)が骨抜きになるという強い批判がある。
ところが、二月二十七日東京新聞朝刊によれば、中谷防衛大臣は、記者会見で、「文官統制の規定は軍部が暴走した戦前の反省から作られたのか」と質問されると、「その辺は、私、その後生まれたわけで、当時、どういう趣旨かどうかは分からない」と答えたということだ。そして、記者が「戦前の軍部が独走した反省から、先人の政治家たちが作ったと考えるか」と質問すると、「そういうふうに私は思わない」と答えたという。
だが、高校生だったぼくははっきり覚えている。敗戦後、新憲法が制定され、それに基づいていろいろな法律が作られ、自衛隊が創設されたとき、戦前に軍部が独走して、満州事変、支那事変へとこの国を引きずり込んでいった反省から、「文民統制」が必須であるとの意見が圧倒的に強く、誰も疑わずに、自衛隊での「文官統制」が規定されたのである。あの重要な議論の記録が防衛省に残っていないはずはない。それは、「私、その後生まれたわけで、当時、どういう趣旨かどうかはわからない」で済まされることではない。もし、「生まれる前だから知らない」で済まされるのだとしたら、「現行憲法」についても、それで済まされるのではないか。「私、うまれる前ですから、わかりません」。そんなことはあり得ない。
しかも、一大臣が「生まれてないからわかりません」と言って、一大臣の判断で、民主主義の根幹をなす概念と制度を抹殺していいのか。
歴史の反省に立った法律でも、こんな論理とやり方で変えることができると安倍内閣は考えているのだろう。これは極めて重大な問題である。野党もマスコミも、正面から取り上げて追及しなければならないはずである。だが、ほとんど追及していない。われわれ庶民のほうからマスコミの尻を叩かなければならない。
マスコミ業界の記者たちが、こういうことの重大さに気が付かなくなっているのだろうか。しかし、耳と頭を研ぎすませて、政治家の傲慢と怠慢と無知に鞭を当ててもらいたい。この国が歴史の岐路に立っている今、マスコミ業界の記者たちの奮起を求めたい。(2015.3.4)
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