第66号「平和国家として生きるために克服すべきことがある」

昔あったづもな通信 第66号  
小澤俊夫

平和国家として生きるために克服すべきことがある
 前号で書いたように、日本が平和国家として生きる道を野党が具体的に提示しない限り、選挙での勝利はほとんど望めないと思う。平和国家として生き抜くためには、諸外国と平和的な強い結びつきを築いておかなければならないのは当然である。文化、経済、科学、医学、そして広く庶民間で信頼関係を築いておかなければならないことは誰でもわかる。特に近隣諸国との関係が重要なのである。紛争はほとんど近隣国の間で発生しているからである。近隣国に、「日本は平和国家として信頼が置ける」と評価してもらえないと、平和国家は成り立たない。
 日本の場合には韓国、北朝鮮、ロシア、台湾、中国、そして東南アジア諸国との関係が重要である。これら諸国と日本は、つい70年前までは対立関係、又は戦争関係にあった。
 今後、永久に友好関係を持ちたいならば、過去の関係を清算しなければならない。政治家たちはしばしば「未来志向でやる」という言葉を使う。そこでぼくが気になるのは、「未来志向」はいいが、肝心の過去についてはきちんと清算できているのか、という問題である。
日本人はあの戦争を、半分しか見ていないのではないか。
 以前にもこの「昔あったづもな通信」で書いたことだが、ぼくは中学3年まで戦争を体験したので、気になることがある。戦争中、男たちは「赤紙」と呼ばれた召集令状で、軍隊に召集された。拒否は絶対にできない。軍隊に入るということは、「死に」に行くこととほとんど同じである。それでも男たちはみんな涙をこらえて、「お国のために戦えるのは光栄なことだ」などと述べて、出かけていった。家族も同じように「どうぞお国のためにしっかり務めを果たしてください」とか、「あとはしっかりやるから、心配なく戦ってください」とか言って、送りだした。
 ぼくははっきり覚えている。東京の立川駅で、大勢の人が出征軍人を、「君が代」を歌い、万歳三唱をして送りだしたのを。大小の「日の丸」が激しく振られていた。信時潔作曲の「海ゆかば」が厳かに歌われることもしばしばあった。
 見送る人々にとっては、その出征軍人は大事に育ててきた息子であったり、愛する夫であったり、大事な父親であったり、愛する恋人であった。みんな優しい男たちだった。死に向かって送り出すことは、どんなに辛かっただろう。だが、「軍国の母」は泣いてはいけなかった。みんな涙をこらえていた。そして「銃後」をしっかり守らなければならなかった。
 戦地に送り出してからは、「銃後」の留守家族は「慰問袋」というものを送った。食べ物は禁じられていたが、それ以外の、本人が喜びそうな物を袋に詰めて送ったものだ。子どもの書いた絵、手紙、郷土の土人形。郷土を思い出すようにと柳田国男編「全国昔話記録」もよく送られたそうだ。寒いだろうからと、チョッキ、セーターもよく送られた。優しい夫が、息子が、恋人が喜ぶことを願って、「銃後」の国民はみんな心を込めて送った。
戦死通知、そして敗戦
 しばらくして、不幸にして戦死通知を受け取る留守家族が多くなった。「銃後」の国民は悲しみに震えた。だが、それは「ご主人は、天皇陛下のために名誉の死を遂げられたのです。靖国神社にまつられて、神となられるのです。こんな名誉なことはありません」という言葉で抑えられてしまった。みんな、戦死者は靖国神社で「神」となると信じ込まされていた。有名な流行歌があった。
「こんな立派なお社に、神とまつられ、もったいなさに、せがれ、来たぞえ、九段坂」
 愛する男たちは、戦死したら靖国神社にまつられて神となる、と国民はみんな信じ込まされていた。
 真珠湾攻撃から三年たった頃には、各地で「玉砕」が伝えられ、銃後の都市も爆撃され始めた。各地で家が焼かれ、人が死んだ。一九四五年には、東京が三月十日と五月二五日に無差別大爆撃を受け、数十万人が殺された。沖縄では熾烈な地上戦になり、住人の四人のひとりが殺された。そして、八月には広島と長崎に原子爆弾が投下され、数十万人が一瞬に殺された。
 そして八月十五日ポツダム宣言受諾。無条件降伏。敗戦だった。そして、生き延びた愛する男たちは、復員者として、荷物のように運ばれて帰国してきた。銃後の国民は、貧乏ながらも、一家の柱である男たちが無事帰還したことを喜んだ。もちろん、帰国に伴って様々な葛藤がそれぞれの家にあったのだが。
 生還した元軍人たちは、自分が戦地で経験したことを家族に話さなかった。ぼくは、戦後の生活の中で、父から、夫から、戦地の経験を聞かせてもらったと言う人に一度も会ったことがない。みんな異口同音に「父は何も話してくれなかった」「夫は何も話さなかった」と言う。銃後の国民は、愛する男たちが、日本兵として戦地で何をしたのか、全く知らないまま戦後の時間が流れ、戦争についての日本人全体の意識が形成されてきたのである。それは何か。日本軍人とは愛する息子、父、夫であり、銃後国民は各地への爆撃と沖縄での地上戦で苦しめられたという被害の記憶だった。それが日本人にとっての戦争というものだった。それは外国人を無差別に殺したり、女性を性の奴隷にした戦争ではなかった。
戦地での日本兵
 以前に、この通信でも書いたことなのだが、ぼくは小学校入学一年前から五年生の初めまで北京にいた。北京では日本軍が精華大学という名門大学を占拠して陸軍病院として使っていた。北京在住の日本人は、陸軍病院にしばしば見舞いに行った。ぼくら小学生が行くと、傷病兵たちは喜んで、いろいろ話をしてくれた。傷病兵といっても、ほとんどは戦闘で負傷した兵隊たちであった。兵隊たちはベッドでぼくらを囲んで、談笑した。彼らが特に好んで話したのは、戦場での手柄話だった。
 進軍して行って、もし畑で働いている人間がいたら、必ず射殺した。老人であろうと、子どもであろうと。何故なら、それがスパイをするかもしれないからだ。日本軍の行動がもれるからだという。小学四年生だったぼくは、その光景が思い浮かんでしまって、怖かった。
 怪しい男を追ってある村に入ったが、その男が見つからなかった。そこで、村人たちに、食糧を配るという知らせを出し、一軒の家に集めた。集まったところでその家に火を放った。大混乱になり、家から逃げ出してくる奴は機関銃で倒した。ぼくは、この光景もまざまざと目の前に見えてしまって、怖かった。
 ある兵隊は南京攻略に加わったらしく、南京の話を得意になってしていた。毒ガスを使った話もした。あるときは、多数の捕虜を川辺に一列に並ばせておいて、こちらから機関銃でなぎ倒して、川に落としたことを得意になって話してくれた。これは、戦後になって、南京大虐殺として問題になった事件の一部ではなかったかと思う。
 ぼくら子どもが震えあがるような話を、兵隊たちは得意になって話すのだった。ぼくは子どもながらに、「戦争って変だなあ。こんなこと、普通だったら犯罪だよなあ」という疑問を一瞬もった。だが、そんなことを思ってはいけないのだった。しかし、中国ではそのころ既に、「鬼畜日本」という言い方が密かに流れていた。中国人にとって、日本兵は「鬼畜」だったのである。だが、日本の銃後の国民は、そんなことは全く知らなかった。
 従軍慰安婦
 日本軍が慰安婦を連れていることは、当時は常識だった。陸軍病院では、さすがに子どもであるぼくたちに話す兵隊はいなかったが、何となく当然のこととしてぼくらの耳にもはいっていた。何となく、朝鮮の女性ということだった。中国の家は屋根が平らなことが多い。ぼくの家もそうだったので、ぼくらはよく、屋根に上がって、隣の屋根にとび移って遊んだ。隣の家は、医者だか何かインテリの家ということだった。ところが、あるとき、屋根で遊んでいて、ふと隣の庭をのぞくと、昼間なのに寝巻を着た女性が何人かいた。あとで母にそのことを話すと、ひどく叱られて、「もう絶対に屋根で遊んではいけません」と言われた。あれは将校用の高級な慰安所だったのだろう。後に聞くところでは、兵隊用の慰安所は公衆便所のようなものだったと聞いた。慰安婦は人間扱いされなかったのである。
口を閉ざしたままの日本軍人
 ここまで書いたことは、銃後のことも、戦地での日本軍人のことも、ぼくが直接体験したり、見たり聞いたりしたことである。だが、銃後の人たちは、戦地での日本兵のことは知らないだろう。慰安婦のことも、言葉でしか知らないかもしれない。復員した日本軍人たちが戦地の話を封印したままだったので、ほとんどの日本人には、戦地での日本軍人の鬼畜ぶりはばらされないままになっている。その結果、日本人のあの戦争へのイメージは、「愛する父や夫や息子が無事帰ってきてよかった」または、「父や夫や息子を失って悲しい」であり、銃後の国民として、「爆撃で家を焼かれた]「空襲で家族を失って悲しい」である。そして、究極の悲劇は原子爆弾による悲劇である。
 ほとんどの日本人が共通にもっているこの戦争へのイメージは、実は戦争の半分しか見ていないイメージではないか。敢えて単純化して言えば、自分を戦争の被害者として見ているだけで、自分を戦争の加害者として見ていない、のではないか。
 その意味で、ぼくは天皇がこの二年にわたって、「お言葉」の中で、「深い反省」と述べておられることを高く評価し、尊敬する。天皇は日本人が加害者だったことにこだわっておられるのだと思う。ジャーナリズムは、この点をもっと大きく取り上げてもらいたいと思う。安倍首相は一度もこの言葉を言わない、という事実も含めて。
ナチスの強制収容所を保存公開しているドイツ
 ドイツでは、強制収容所をいくつも保存し、公開している。自分たちドイツ人が冒した人道への罪の物証を公開しているのである。それは、二度と過ちを犯さないという覚悟を世界に表明しているのである。ドイツ人にも被害者の面と加害者の面がある。その意味で、戦争を全体として捉えている。加害者であったことを認め、二度と過ちを犯さないという決意を、現物でもって世界に表明しているのである。
 翻って、日本での戦争の跡の残し方はどうだろうか。戦争の最大の傷跡は原爆ドームである。全く痛ましい。だがあれは被害の傷跡である。あれはアメリカ軍が人類に対して犯した深い罪の物証として保存されるべきである。オバマ大統領は広島で、「空から死が降って来た」と言ったそうだが、「降って来た」のではない。アメリカ軍が死を落としたのである。オバマは、自国の責任を認める勇気を持たない、小さな人間であることを自ら暴露してしまった。
 日本では、オバマ大統領が広島を訪問したことを喜んでいるが、日本が韓国に対して、慰安婦像の撤去を要求していることとの矛盾は問題にされていない。日本の銃後の国民はほとんど知らなかったのだが、日本軍人は、朝鮮の女性を性の慰安婦として使った事実がある。明らかに加害者であった。ところが、今、日本は、被害者である韓国人が被害の物証として慰安婦像を遺していることを認めようとしないのだ。一方では、広島の被害の物証である原爆ドームは残し、オバマ大統領が見に来ると喜んでいるのに。
 もしオバマ大統領が、「原爆ドームは、戦争中のことなんだから撤去してくれ」と言ったら、日本人は撤去するだろうか。絶対にしないだろう。韓国人が慰安婦像を撤去しないのと同じである。だが、日本人はそのことを理解しようとしていない。
 日本政府は、「元慰安婦支援財団」のために10億円を提供する、その代わりに世界にある慰安婦像をすべて撤去せよと、安倍首相が先頭に立って主張している。韓国人の慰安婦像はアメリカ、カナダ、オーストラリアにあり、現在、ドイツでもフライブルク市に設置する計画が進んでいる。日本軍の従軍慰安婦のことは世界に知られており、世界は日本がどう対応するか、注目しているのである。こんな恥さらしな主張が世界に通用するとでも思っているのか。加害者であったことを一切認めない傲慢さ。いや、傲慢でなく、実は自信のなさなのではないのか。
 戦争を半分しか見ていないことが、70年たった今でも、世界の中での日本の地位を脅かしているのである。ジャーナリズムはこのことをもっと問題にしてもらいたい。日本を世界の中に置いて見るということは、オリンピックで獲得したメダル数を数えることだけではない。
 日本が、真に平和国家として世界に認められて生きていこうとするのであれば、あの大戦争を、都合のいい半分だけ見ていることは許されない。加害者であった面も認めて、絶対にそれを繰り返さないという確固たる決意を世界に示さなければ、世界は日本を平和国家として尊重してくれるはずがない。
 だがこれは、これまでの日本の流れを見ていると、日本人にとって、残念ながら極めて困難なハードルであると思われる。(2016.9.9)
 
 

 

 
 
 
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第65号「参議院選挙の陰で何が起きていたのか」

昔あったづもな通信第65号
小澤俊夫

参議院選挙の陰で何が起きていたのか
 戦争法反対で、あれだけの民衆が国会を取り巻き、各地で反対集会をしたのに、選挙のふたを開けてみると、なんと、安倍政権を支える票が圧倒的に多く、国会議員の議席の三分の二を与える結果になってしまった。反対に立ち上がった人間とっては、開いた口がふさがらないような結果だが、ここは冷静に、そして正確に見ていかなければならない。野党たちは当然、精密な分析をしているだろうが、ぼくも、一市民としての考えを述べておきたい。
 この通信、第62号で報告したことだが、この四月に九州の知覧特攻記念館を久しぶりに訪問したとき、二十年前の展示とは違っていることに気付いた。若くして死んでいった特攻兵士たちの本音を語る部分が全くなかったのである。展示されていることは、国のために若くして命を捧げた者たちへの賛美ばかりだった。そこには、そもそも特攻攻撃という戦術の愚かさ、無責任さなどへの反省は全くなくて、ただただ、国のために命を捧げた若者たちへの賛美だけだった。ぼくは、この国全体が右へ地盤移動したのを感じて、恐ろしかった。
 ぼくは昔ばなし大学なるものを全国で開講しているので、あちこちの町で勉強会をする。会場はコミュニテイセンターなどが多いので、他の部屋の様子などを見ることがある。すると、「太平洋戦争を考える」とか「男女別姓を考える」などの部屋が多いことに気がつく。内容は「あの戦争はアジア解放戦争だったのだ」とか「アメリカの謀略による戦争だった」というものであることは容易に想像できる。「男女別姓はわが国固有の家父長制度に反する」という主張が聞こえて来るようである。このような、平和憲法を否定するような集会が、きっとあちこちで開かれているのだろうと思って、ぼくは寒気がしていた。知覧の経験と合わせて、ぼくは、この国が右へ地盤移動していることを、ますます強く感じていた。
 そしてだんだんに強く聞こえてくるようになっているのは、日本会議に関することである。日本会議とは、一般にはあまり知られていないようだが、右翼から極右にいたるまでの多数の団体が加盟する総体である。神社本庁から各神社、仏教のお寺まで加入しているところがあるという。つまり、庶民の隅々にまで浸透している組織であるといえる。その組織の末端が、コミュニティセンターなどでの小さな集会を開いているものと思われる。
 お寺の和尚さんや神社の神主さんから誘われたら断りにくいだろうし、町の世話役から誘われても断りにくいだろう。善良な庶民はそうやって集められ、日本会議の思想を吹き込まれているようである。
 ではその時の話題は何か。「太平洋戦争はアジア解放の戦争だった」というような過去の話もさることながら、庶民の心に最も訴えるのは、「日本が攻撃されたとき、どうやって国を守るのか」、「北朝鮮がミサイルを持ったそうだ。日本はいつ攻撃されるかわからない。だから軍備を強化して、アメリカ軍と連携することが必要なのだ」「中国が尖閣諸島を狙っている。軍備を整えないと危ない」などの話であるらしい。
 確かに北朝鮮はミサイル実験を繰り返しているし、中国は尖閣諸島周辺に公船を走らせているし、「あの諸島は明確に中国領である」と主張している。そういう現状の中で、「平和憲法では国は守れない」と言われると、多くの庶民は納得してしまったのではないか。それがあの参議院選挙の結果なのではないか。
 国会包囲に掲げられたスローガン、「平和憲法を護ろう」「子どもを戦場に送らない」は全く正しい。それはこれからも貫かなければならない。だが、それだけでは「軍備がなければ国は守れない」「命を投げ出す覚悟がなければ国は守れない」という庶民の心配を打ち消すことはできないのではないか。
 そのことが正直に現れたのがあの参議院選挙の結果なのではないか思う。
 憲法九条の規定にも拘わらず、自衛のための一定の軍事力は保持している。そこまでは一般庶民も理解していると思う。だが、「それ以上の海外派遣はしない。アメリカ軍と一体になった戦闘はしない」と言われると心配になってしまうというのが、庶民の正直なところではないだろうか。そこのところを解明して、「大丈夫なんだよ」と言わないと、次の衆議院選挙でも同じ結果が出てしまうのではないか。野党の政治家たちがその問題を真剣に考えることを期待する。
 ぼくの考えでは、今必要なのは、平和憲法を70年間守って来た国として、強力に平和外交を展開することだと思う。政治家や外交問題の専門家は、平和外交で国を守る具体的な方向を庶民に提示しなければならない。スイスは永世中立国として長年やってきた。そのことも参照にしながら、具体的な方策を庶民に示すべきである。
 「子どもは戦場に送らない」「憲法を守ろう」はもちろん重要なスローガンだが、ではどうやって国を守るの?という庶民の素直な心配を鎮めなければならないと思うのである。(2016.9.1)
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