第11号 火薬作り

昔あったづもな 第11号
小澤俊夫

このメール通信「昔あったづもな」は次の第12号から、「mukashiattazumona@gmail.com」
から発信いたします。これまでの仕方では発信のために、わたしがかなり手間をかけなければならなかったで、仲間に教えられて、知恵を使ったわけです。どうぞご理解ください。

火薬作り
 1944年(昭和19年)、各方面の戦線での「玉砕」が相次いで発表され、国内の都市は次々と空襲を受けていた。大学生は「学徒出陣」と称して軍隊に召集されていった。予科練とか特幹(特別幹部候補生)に志願していった中学の生徒もいた。ぼくらの二年上級だった。
 当時中学二年生だったぼくらの学年は、学徒動員と称して、主として工場に派遣された。ぼくらは9月に中学に通うことをやめ、東京郊外の南武線南多摩にある陸軍第二造兵廠(通称火工廠)に配属された。毎日火工廠で工員として働くのである。火工廠の中でもクラスによって配属が分かれた。ぼくら二年一組は火薬の収缶部門に配属された。出来上がって厚紙に包まれた火薬を木箱に詰めて密封し、火薬庫に収める仕事である。
 火薬だから細心の注意が必要だった。一つ一つを木綿(もくめん)で丁寧に箱に収め、蓋を丁寧に打ち付ける。出来上がった木箱を作業所一角に積み上げる。最初のころ収缶した火薬箱は30キロで、中身は確か手りゅう弾の火薬だった。30キロの木箱を一人で担いでいって、きれいに積み上げる。担ぐときには両脇に一人ずつ立って木箱をはねて(持ち上げて)やる。そこへ担ぎ手が肩を入れて担ぎ上げる。積み上げは、一人で、狙いすまして木箱の上にピタリと置く。慣れてきてからは、高い段にはバスケットボールのようにうまく投げ上げたものだ。
 火薬庫に運ぶ馬車がくると、ひとつずつ丁寧に馬車に積み替える。この作業が大変だった。作業所の出口の鴨居が低いので、火薬箱を担いだまま腰をかがめなければならない。腰が痛んで、火薬箱を落としそうになるのである。だが、火薬だから、絶対に落としてはなるぬと厳命されていた。「手が潰れてもいいから最後まで支えろ」中学二年生には無理なことだった。火薬庫は万が一の場合に連鎖爆発しないように、山のあちこちの谷に分散して作られた半地下壕だった。
 年の暮れ頃になると、来たのは45キロの火薬箱だった。中身は戦車地雷の火薬ということだった。当時、政府は、サイパンなど南方諸島まで攻めてきたアメリカ軍を日本本土に「おびきよせて、本土決戦で壊滅させるのだ」と息巻いていた。そして、アメリカ軍は九十九里浜あたりに上陸してくると予想し、あの砂浜に無数の戦車地雷を埋めておいて、上陸してきた戦車を破壊するのだと本気に考えていた。その戦車地雷用の火薬なのだ。如何にたくさんの地雷を埋めても、あの広い九十九里浜のどこに上陸するか分からないのだから、夢のような話だと思った。
空襲警報が鳴ると全員山の中の火薬庫に避難させられた。厚いコンクリートの半地下壕とはいえ、爆弾が一発落ちたら全員死ぬことは確実だった。
 東京の空の制空権は完全にアメリカ空軍に握られているので、空母の艦載機が自由に襲ってきた。あるとき、グラマン戦闘機が超低空で火工廠の上空を飛び回った。ぼくらは半地下壕の中で息を潜めていたが、もう完全に銃撃されると観念した。だが敵機は何回か飛び回ったら、一発も撃たずに飛び去った。アメリカ軍はもう勝利を確信していたから、占領後に自分たちが使えるように、施設を破壊しなかったのだと思う。多摩川の橋もひとつも破壊されなかった。事実、占領後、アメリカ軍はこの火工廠をそのまま火薬庫として使用した。和平提案もあった。それなのに日本政府は徹底抗戦を唱え、天皇もそれを抑えられず、そのために、沖縄、広島、長崎、その他、戦地でも銃後でも、死ななくていいはずのたくさんの人の生命が失われたのである。
 翌年の春頃からは、沖縄戦の特攻隊用の爆弾の火薬が運び込まれた。戦闘機一機が抱えていく大きな爆弾で、胴体部分は円筒形だから重くて、収缶すると110キロ、弾頭と弾尾部分は円錐形なので90キロだった。両脇からはねてもらうとは言え、一人で担げるのはクラスに三人しかいなかった。ぼくはその一人だったので、大きいのがくるといつも担がせられた。
右肩は瓦のように硬くなり、感覚を失っていた。
 この火薬は知覧基地から飛び立つ特攻隊が抱えていくのだ、と聞かされていた。敗戦後、その知覧へ行ってみた。基地の様子を涙なしでは見られなかった。あの火薬でたくさんの若者が死んでいったのだと思って。
 火薬担ぎのために、ぼくは腰と背骨を痛めてしまった。敗戦後、約20年間苦しめられた。だがぼくの受けた苦しみなど、微々たるものである。300万人の日本人が命を失い、国民すべてが苦しんだ。敗戦後、いろいろな秘密が暴露されてみると、一般庶民の苦しみを他所に、特権階級の連中はぬくぬくと甘い汁を吸っていたことがわかった。秘密は、特権階級と官僚を守る為にのみ必要なのである。国民を戦争に追い込んだ政府と軍部の中心にいた連中は固い秘密の壁の中で動いていたのだった。それでも日本国民は、自分たちの手で戦争責任を追及することをしなかった。国民のそういう手ぬるさ、よく言えば優しさを、現在の政府も官僚もよく知っているのだ。それだから、福島第一原発の大事故の責任を曖昧にしたまま、再稼働を計画したり、外国に原発を売り込んだり、4千億円以上の金を掛けて東京でオリンピックをやっても、追及されることはないとたかをくくっている。だが原発の問題、解釈改憲の問題、武器輸出の問題、秘密保護法の問題では、日本国民は手ぬるくあってはいけない。優しくあってはいけないのだ。(2014・4・4)
      

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