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第5号 中国で見た日本の軍人

メール通信  昔あったづもな 第5号        発信者 小澤俊夫

 年末年始の休みが終わったら、途端に用事が増えて通信を発信できませんでした。第4号までを多くの方が読んでくださり、感謝いたします。
 誤りのご指摘を受けました。第一号で「後で退却だったことが分かったマダガスカル島の戦況」という文言がありますが、これは「ガダルカナル島」の間違えでした。陳謝し、訂正いたします。
PDFで送信した方がいいというアドバイスがあり、今号からPDFにして送信します。

中国で見た日本の軍人
ぼくは小学校入学の一年前、1936年(昭和11年)、父の仕事の都合で瀋陽(当時の奉天)から北京に移住し、翌年、北京の日本人小学校に入学した。その頃、北京在住の日本人は約700人といわれていた。ところが1937年(昭和12年)7月に、いわゆる盧溝橋事件が起き、日中戦争が勃発して、日本軍が北京周辺を制圧すると、日本の軍人、民間人が瞬く間に増えていった。ぼくが一年生の時には1クラスだったが、二年生の時には2クラスになっていた。
 日本軍が制圧した北京市だから、日本人は威張っていた。あるとき、ぼくの目の前で洋車(ヤンチョウ。人力車)がとまり、日本の兵隊が降りてきた、と思ったらそのまま歩いて行ってしまった。料金を払っていないのである。あれっ、と思って見ていると、洋車引きが追いかけていって、手を出した。すると、兵隊は腰のサーベルを半分くらいさっと抜いて、洋車引きをにらみつけた。洋車引きはあとずさりして、何か叫びながら逃げてきた。兵隊はサーベルを鞘に収めると、そのまま行ってしまった。
 ぼくは子どもながらに、これはおかしいと思った。料金を踏み倒して、サーベルを抜いて脅かすとは何事か、とぼくは腹を立てた。日本の兵隊のいやな面を見てしまった思いで、今でも忘れられないでいる。
 北京には日本軍の野戦病院が開かれた。それは中国で最も権威有る大学とされていた精華大学だった。精華大学は現在でも中国の中心的な大学である。それを占領して野戦病院にしたのであった。日本で言えば、東京大学を占領して野戦病院にしたようなものである。中国の文化人たちは、「なんと野蛮なことだ」と思ったことだろう。
 小学三年と四年の頃、ぼくはよく、クラスの友だちと、あるいは母に連れられて、傷病兵の慰問に行った。地雷で片脚を失った兵隊、目をつぶされた兵隊、片腕をもぎ取られた兵隊など、胸がふさがるような病室だった。兵隊たちはぼくら子どもが慰問にいくと、とても喜んで、ぼくらの周りを取り囲んでいろいろな話をしてくれた。
 ほとんどは戦場での手柄話だった。進軍していって、途中の畑で人が働いていると、それが老婆であれ、子どもであれ、必ず射殺したものだ、何故なら、その老婆が、われわれのことを通報する可能性があるからだ、という兵隊もいた。敵に自分たちの行動を知られたくないためだという。その兵隊は、手柄話として得意になって話したのだが、ぼくは、子どもながらに、おばあさんや子どもまで射殺するとは、ひどいことだと思った。でも兵隊にしてみれば、スパイを働く人間としか見えないのだろう。
 もっとすごいことを、得意になって話す兵隊がいた。抵抗分子が潜んでいるとみて、ある村に進軍した。ところが撃ってこない。どこかに潜んでいるに違いないが、村を捜索してもそれらしき男はいない。そこで、村人全員に食料を配給するという知らせを回した。そして、集まってきた村人を一軒の農家に入れて、農家に火をつけた。農民は大混乱におちいったが、外へ脱出した者は機関銃で皆殺しにした。
 この話は怖かった。でも、兵隊は手柄なのだから、得意になって話した。周りの兵隊たちも満足そうに聞いていた。ぼくはこどもだったけれど、後で思った。これは人殺しじゃないか。戦争でなかったら明らかに犯罪だ、と戦争への疑問が生まれた経験だった。
 南京攻略の時のことを話してくれた兵隊がいた。南京城をめぐる攻防は激しく、なかなか埓があかなかった。そこで最後には毒ガス攻撃をしたと、得意げに話した。毒ガスは国際的に使用禁止になっていることは知っていたので、ぼくは驚いた。だが兵隊たちは、当たり前のように話していた。
 また、しまいには膨大な数の投降兵がでたので、奴らに溝を掘らせ、その前に一列に並ばせておいて、機関銃で1遍に片付けたもんだ、と言った兵隊もいた。これは具体的に場面を想像してみると、すさまじい場面である。後に、南京大虐殺として国際的に糾弾された事件だったのだと思う。
 こういう話を、みんな手柄話として、得意満面で話して聞かせるのであった。ぼくらはこわごわ聞いた。それでも、後から、「これは普通の時ならば犯罪じゃないか。戦争だからいいのかなあ?」という疑問はいつも抱いていた。
 1941年(昭和16年)5月、ぼくたち家族は日本へ引き揚げ、東京府の立川市にすむことになった。その頃、戦地に対して国内のことを「銃後」と呼んでいた。明らかに軍国主義国家の生んだ呼び方である。
 戦地から銃後に移住してくると、男たちが次々に招集されていく場面をたびたび見ることになった。父が、夫が、息子が赤紙で招集されていった。家庭では、赤い召集令状が来ると、涙をこらえて別れをし、国防婦人会のたすきを掛けた婦人たちに見送られて入隊していった。近所の住民たちは、弾丸除けの千人針を作って召集兵に贈り、武運長久を祈った。立川駅では町会や隣組の人たちが万歳三唱して召集兵を見送った。「軍国の母は泣かない」と常日頃いいきかせられているので、母や妻たちは涙を見せず、立派に見送っていた。
 残された家庭では、慰問袋を作って、戦地にいる父、夫、息子に送った。そこには心を込めた品々が入れられた。皆、戦場の父は、夫は、息子は皇軍兵士として立派に行動しているものと信じていたのである。
ところがぼくは、戦地での日本兵を知っていたので、そこに大きな差があることに気がついた。銃後では愛する父であり、夫であり、息子である者が、戦地では老婆でも子どもでも無差別に射殺する鬼のような日本兵になる事実。村人たちを一軒の農家に閉じ込め、火をつけて皆殺しにする日本兵になる事実。多数の捕虜を並ばせておいて、機関銃でなぎ倒す日本兵になる事実。この大いなる乖離は、銃後にいる人は全く知らない。愛する、優しい父、夫、息子が立派な殊勲を立てて帰国する日を、ひたすら待ちわびているのである。
 一人一人の人間の、この大きな分裂を銃後の人は知らない。戦地から来る知らせは、せいぜい父が、夫が、息子が戦死したという悲しい知らせである。敗戦後の日本人は忘れてしまっている。無事帰還した兵隊は、家族には何も話さなかった。そのことは、多くの婦人たちが証言している。帰還した元日本兵にしてみれば、平和になった故郷で、家族に話せるような体験ではなかったのだ。
 逆に、外国、特に直接の被害を受けたアジアの人は、、優しい父、夫、息子という日本人は知らない。彼らにとって日本人は、残虐行為をした人間そのものなのである。その認識に基づいて、日本人の犯罪行為の追及が行われる。ところが、日本人にとっての日本兵は、やさしい父、夫、息子なのである。われわれ日本人は、あの戦争のことを考えるとき、目線の方向によって日本人像がまったく異なることを忘れてはならない。つまり、銃後の、そして戦後の日本国内での日本人像を描きながら戦争を論じたら、世界的には全く通じないのである。
 あの戦争は、動機はいろいろあったにせよ、アジアへの侵略戦争であった。そしてその中で残虐行為があった。無関係な女性を引っ張り回して慰安婦とした事実もあった。銃後の人は知らなくとも、アジアの人は知っていた。そして、日本は1945年8月にポツダム宣言を受諾して、無条件降伏をしたのである。つまり全体主義をやめ、民主主義国家の仲間に入れてもらうことを約束したのである。だから、全体主義時代に犯した罪を償うのは当然のことである。それをちゃんとしてこないで、なんとなく賠償して、これですんだ、としてしまっても、外国は了承してくれない。今日本はそういう状態に陥ってしまっている。
 一言で言えば、政治家たちは歴史から学ばず、銃後の目で見ているだけなのである。そして、敗戦は終戦になっているから、全体主義は継続して生きているのである。その「日本を取り戻す」ためには官僚機構が強くならなければならない。そこで「特定秘密保護法」が必要なのである。戦争中の「銃後」の世界と戦地での日本兵の世界の乖離を、遅まきながら、しっかり把握して政治を行わなければ、日本は国際社会から置いてきぼりにされてしまうのである。(2014/01/28)
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